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ブログ移転のお知らせ
4年近く愛用させていただいたExblogに感謝しつつ、さらなる飛躍を願ってFC2ブログへ移転することとなりました。しばらくの間は兼用しながら、じょじょに過去のエントリの移転を進めてまいりますので、引き続きご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。

新ブログ 「Devotion Time

URL: http://theologia.blog21.fc2.com

なお、頂きました貴重なコメントの数々は、残念ながら移転が難しいと思われます。ご容赦くださるよう、お願い申し上げます。新ブログにてあらためてコメントをいただければ幸いに存じます。
# by theologia | 2008-05-10 02:31 | 雑記
注解書紹介「New International Commentary on the New Testament」
先日、友人より注解書を紹介して!との依頼を受けました。私にとって、本を紹介するときに一番困るのがこの「注解書の紹介」なのですが、大切な友人なのでがんばって紹介します・・・。今回はまず新約聖書の注解書についてです。

STEP 1
 職業によって程度の差はあるでしょうが、注解書を選んで購入する作業は生涯続きますので、エントリ「本紹介『New Testament Commentary Survey』」で紹介したD.A.Carson著「New Testament Commentary Survey」を購入することを何よりもお奨めします。すぐれた注解書・新約緒論・新約神学の著作のシリーズもの・書簡別ものを紹介している本です。144ページの薄い安い本でありながら優れものですから、新約聖書研究書の辞典として蔵書されることを強くお奨めします。

STEP 2
 George H. GuthrieとJ. Scott Duvallが共著「Biblical Greek Exegesis」で記していますが、「全書簡のシリーズよりも個々の巻を優先しましょう。大半の人が言うように、シリーズものは一様ではありません」(GrandRapids, Zondervan: 1998. 143)。New Testament Commentary Surveyの書簡別の項においてカーソンが一番最初に紹介している注解書を蔵書されることを強くお奨めします。

STEP 3
 それでも全書間のシリーズものをとりあえず購入したいのであれば、Gordon D. Fee編「New International Commentary on the New Testament」をお奨めします。全書間のシリーズよりも個々の巻を奨めるガースリーとデュバルでさえ、結局このシリーズの各書16巻すべてをお奨めしています。ばらばらで購入するとかなり高額になりますので、Christianbook.comにてシリーズで購入するのが最安値です(2006年3月2日現在。Yahoo.comでの検索による)。1980年代以降、いくつかのvolumeが改訂(著者が変更した全面改訂もあり)されていますので、シリーズで購入されるのであれば、新品を購入されることを強くお奨めします。各書簡の注解者は英語圏の非常に有名な福音派神学者たちです。ちなみにCDなどのデジタル版はまだ販売されていないようです(2006年3月2日現在)。Old Testament版もありますが、こちらはシリーズでの購入を私はお奨めしません(当たり外れがかなりあります)。

 あくまで注解書ですから、語学的にいえば原語の文法書・辞典に勝るものはありません。あくまで「自分の釈義では気づかなかった点に気づくために・・・」程度に使用することを前提としてご購入を考えてみて下さい。

Title: New International Commentary on the New Testament (16 vols)
Editor: Gordon D. Fee.
year: 1984
Publisher: Wm. B. Eerdmans
ISBN: 0802824455
# by theologia | 2006-03-02 23:39 | 本紹介
自転車グッズ紹介「ブリヂストン バックホーク用自動点滅ソーラーテールライト」
 エントリ「自転車グッズ紹介『サンデン ソーラーLEDライト』」にて、ソーラーパネルで発電・充電し自動点灯する前照灯を紹介しました。今回はその尾灯版を紹介します。

 バックホーク用自動点滅ソーラーテールライトは、ソーラーパネルで発電・充電し、暗いときに走ると自動的に点滅を始める尾灯です。直射日光に2時間あてるだけで、8時間の点灯を行います。日没時刻が早い冬の時期、自転車後方への点灯は、安全走行のために非常に効果的です。道路交通法第五十二条にも規定されているとおり、尾灯はつけなければなりません(反射板という手もありますが)。

 私の個人的な使用感ですが、まずは良い点を3点。第一にかなり明るく、ある程度の大きさもあるので、非常に安心感があります。第二に充電や電池交換の苦労・心配がないので、非常に楽です。第三に充電池が交換可能なので経済的です。残念ながら良くない点もあります。第一に本体の簡易取り外しができないこと。自転車置き場に直射日光があたらなければ充電できないではありませんか!本体を車体から簡単に取り外すことができれば問題を克服できたはずです。第二にバックフォークの太さへの対応が2種類しかないこと。最近のマウンテンバイクのバックフォークは非常に太くて対応できません!私はしぶしぶバックフォークについているネジダボを利用してつけています。

 電池代や充電の手間に気をとらわれることなく、すぐに自転車にまたがることができ、非常にうれしいです。経済的にも家計に貢献しているつもりなのですが、「またこんなモノ買っちゃって」という妻の視線をなんとなく感じています・・・。
# by theologia | 2005-11-28 23:22 | 自転車
自転車グッズ紹介「サンデン ソーラーLEDライト」
 エントリ「雑記『健康管理』」を書いて後、腹筋運動や腕立て伏せなどを取り組んでいましたが、やっぱり続かなかった(お気づきですよね・・・)!日本に帰国し、教会からほどほどの距離の所で生活を始めたので、懐かしい学生生活を思い返しつつ(サイクリング部員でした)、自転車通勤をはじめました。

 自転車をはじめ、様々なグッズを用意しました。10数年の間に自転車業界も変わったんだなあ、と感心しました。今日は感心して使い始めたグッズの一つ、「サンデン ソーラーLEDライト」を紹介します。

 自転車につけるライト選びって難しいなあ、と思います。一日の疲れを覚えて帰宅するときにライトを点灯する場合が多いので、ペダルがおもくなるダイナモ(タイヤに当てて発電するのが一般的)は避けたい。電池式のライトは楽だけど電池代がかかる。充電電池を使用してもよいのだが、「充電をしなければならない」というプレッシャーを感じてしまう。しかも「いざ必要」というときにしばしば電池切れを起こしてしまう。無灯火は安全上、法律上、まずい。
道路交通法第五十二条  「車両等は、夜間 [...] 道路にあるときは、政令で定めるところにより、前照灯、車幅灯、尾灯その他の灯火をつけなければならない [...]」

 サンデン ソーラーLEDライトはそんな私の要求に見事に応えてくれた前照灯です。ソーラーパネルで発電、そして充電してくれます。直射日光に3~5時間当てておけば、点滅で6時間、通常の点灯で2時間使用可能です。取り外し可能ですから、ライトだけ取り外して日中日の当たるところにおいておけばOKです。暗いときに自転車を走行させれば自動的に点灯します。

 使用している感想ですが、第一に、LED発光ですので、暗闇を照らすほどの明るさとはいえませんが、対向車には十分なアピールとなります。第二に、自動点灯機能は別に必要ないと思いました。かえって、夕刻にはいつ点灯するのかと気になってしまいます。前照灯は走行中スイッチのON・OFFも容易ですからこの機能はいらないと思いました。第三に、電池代や充電の労苦を一切考えなくて良いことは非常にうれしいです。自転車通勤に関して余計な心配がないことは、継続のためにも非常に重要ですから。
値段も3,000円前後で販売されています(あまり店頭では見かけないので、インターネットで注文されるのが近道と思います)。なかなかの優れものです。

 
# by theologia | 2005-10-14 11:14 | 自転車
雑記「有機的神学者」
 過去と現在の綿密なデータから将来を予想し、悲観的になりやすいその将来に積極的な夢をもたらそうと創造的なプランを描く、そのようなことができる人は非常に魅力的な人物だと思います。オックスフォード大学神学部歴史神学教授のAlister E. McGrathはまさにそのような神学者のひとりでしょう。マクグラスが記した「キリスト教の将来」(本多峰子訳. 東京:教文館, 2002.)を読み終えたとき、私は爽快感に包まれました。過去と現在のキリスト教の世界における状況判断は非常に的確・正確です。その状況判断を土台としてマクグラスが導き出すキリスト教の将来像は大胆にして納得のいくものです。マクグラスによると「西洋の主流のプロテスタント教派・・・の未来の展望は、良くても停滞であろうし、おそらくは・・・深刻な衰退」(143-44)といい、未来のキリスト教を形成する4つの流れとしてローマ・カトリック、ペンテコスタリズム、福音派、東方正教会をあげます(143-170)。超自然や予言を排除するメインラインへの「深刻な懸念」(143)をもつマクグラスは、とくに神学活動の舞台としての「学会」と「教会生活」の対比を明確化し、最終章において、「教会生活」の場で神学活動を営む「有機的神学者」の必要性を創造的かつ魅力的にうったえます;

   ・・・学会の神学は、真の預言者的役割を果たす力がないのだが、それは、まさに、
   それが、あまりに密接に、学会の文化の支持に依存しているからである・・・有機的
   神学者は、アクィナス学者やルター学者であっても良い。けれども、鍵となるのは、
   その学者としての研究をその人がどのように役立てているかなのである。有機的
   神学者は、行動主義者であり、大衆伝道者である-自分の務めを、信仰共同体の
   中では支えとなる組織的なものと考え、共同体の外では、福音伝道と弁証を行うこ
   とであると考えている人である。(210-12)

 マクグラスは、学会で繰り広げられる神学を「学術的神学」(216)と呼ぶのに対し、信仰共同体(教会)で繰り広げられる神学を「会衆の神学」(216)と呼びます。前者の神学の言葉を「バビロンの言葉」(214)、後者の神学の言葉を「シオンの言葉」(214)とまでいい、以下のような言葉で作を締めくくっています、「今や、考えるキリスト教徒たちはバビロン捕囚に終止符をうち、エルサレムに帰還する時であろう。エルサレムで、われわれ自身の言葉で、シオンの歌を歌うために」(216)。

 なんという創造的なプランではないでしょうか。聖書を理解し、神と被造物に思い巡らす学問を、教会が一クリスチャンが自ら展開していくことにキリスト教の将来がかかっているとは。西洋と比較して著作活動・学会活動が極端に小さい日本において、福音派の諸学会・教師・神学者の奮闘は必須です。しかし、ひとりひとりのクリスチャンがキリスト教信仰を支え、伝道し、弁証するために神学を営む気質を失ってはならないのでしょう。

 私の集う教会では近々伝道集会が開かれます。その集会に向かって、私は今一つの地域を担当し、その地域に案内を配り、お誘いしています。一人の婦人に声を掛けたところ、「私は先祖を供養しているだけでいいですから・・・」と断られました。このような言葉に対して、クリスチャンはどのように積極的に応答できるのでしょうか。供養に関する聖書的見解は何であり、「キリスト教は先祖を大切にしない」という先入観に対する弁証方法はどうであり、家の中へ立ち去りつつあるその婦人を立ち止まらせ興味を抱いていただくための応答の第一声はどのような内容なのでしょうか。このようなことを考えることがすなわち「会衆の神学」なのでしょう。近い将来、Devotion Timeがそのような神学を提示していくことができれば、と願っています。と同時に、福音派の「同志」の参画(有機的神学ブログが沢山立ちあがり、お互いにトラックバックしたりとか・・・)を心から願っています。
# by theologia | 2005-10-06 00:57 | 雑記
雑記 「繰り返し」
 現代的な賛美をキリスト教会の礼拝で用いるかどうか、については様々な意見があると思います。賛成の方々は「聖書は新しい歌を主にささげよと言っている」と言われるでしょう。反対の方々は「現代的な歌は、単純な歌詞の繰り返しばかりで、テンポが早すぎてビートが強すぎる」と言われることでしょう。反対の意見の中には「若者の心に働きかけるために賛美を用いる」という考えに反対される方もおられます。米国メソジスト派の牧師D. L. Hartmanの論文「Bring Up a Child With Christian Music?」は聖書からこの点を分かりやすく論じています。

 私個人は、現代的な賛美も好きですし、古典的な賛美も好きです。米国生活中は現代的な賛美を礼拝で比較的多く用いる教会に集っていましたので、その良さを理解できます。と同時に、現代的な賛美に強く反対する友人もおり、彼らの意見にも参考になる点は数多くあります。

 ただ、反対される方々の意見の中に、私を効果的に納得させない意見が一つあります。それは「現代的な賛美には単純な歌詞の繰り返しが多い」という意見です。確かにその傾向を感じないことはありませんが、この意見を聞く時、いつも私の頭をよぎる質問があります、「ハレルヤコーラスも単純な歌詞の繰り返しが多いのでは」?

 ヘンデル作メサイヤのハレルヤ・コーラスは欧米ではクリスマスシーズンに、日本ではなぜか年末にしばしば賛美される有名な曲です。18世紀はじめのこのクラシック曲には、何回も「ハレルヤ」という単純な歌詞が繰り返されています。先日数えてみますと、私の耳では44回のハレルヤが聴こえました。でも決して現代的な賛美ではなく、礼拝にふさわしい賛美です。

 礼拝にふさわしい賛美を論じるときに、「単純な歌詞の繰り返しが多い」 = 「現代的な賛美」 = 「礼拝にふさわしくない」、 という論点には説得力がないのではないか、と私は思います。もちろん、「ハレルヤ・コーラスは礼拝にふさわしくない」と考えておられる方にとっては説得力がある論点なのでしょうが・・・。
# by theologia | 2005-09-28 23:18 | 雑記
Daywind
 以前のエントリ「クリスチャン音楽の楽譜を販売する会社ほしい!」においてWord Musicという会社をご紹介しました。種々の用途のための楽譜・カラオケCD・イメージ動画・練習用テープなどをウェブ上で試聴、購入できる便利な会社です。今回は同じ特徴を備えたDaywindという会社をご紹介します。

 DaywindはWord Musicと同じく、音楽家の著作活動を助けて販売する音楽出版会社ですので、独自の音楽路線があります。あらゆる音楽出版会社の音楽を網羅して販売だけする販売会社も多数ありますが、そのような販売会社のウェブサイトでは、試聴はほぼ不可能です。ですので、音楽出版会社のウェブサイトをおさえておくことは、購入のために非常に効果的です。試しに私の好きな曲の一つである「Days of Elijah」という曲をDaywindのウェブ上で検索し(「Sound Tracks」というタブから入ってください)、試聴されてみてはいかがでしょうか。イエスさまの再臨を歌う素晴らしい曲です。
# by theologia | 2005-05-25 10:05 | 音楽
雑記「文章に伴う責任」
 エントリ「創世記1章『夕となり、また朝となった』の意味」において、文献リストをMLA形式でリストアップしました。普段聞かない言葉かもしれませんが、MLAとはModern Language Associationという協会の略称で、通常、この協会が定めた文章の書き方を指して使われる言葉です。英語圏ではさまざまな書き方がさまざまな分野でそれぞれ規定されています。MLAのほかにAPA、Turabianなどを私は利用することがあります(Devotion TimeではできるかぎりMLAにしたがって書こうとしております)。引用の仕方、文献の書き方などを非常に事細かく規定します。なぜ細かく規定するかといいますと、一つには学会誌等において著者によって書き方が異なることを防ぐためなのでしょう。しかしそれ以上に、著作権を侵害することなく、積極的に他者の文章を引用し、優れた客観的な文章を書くため、という理由が非常に大きいようです。

 MLAには、ウェブサイト、E-mail、インタビューを引用するときの規定も明記されてあります。たとえば私の書いたエントリ「創世記1章『夕となり、また朝となった』の意味」から文章を引用する場合は、引用(参考)文献リストに、

   Theologia. Genesis Chapter 1: The Meaning of "And the Evening and
   the Morning." (Souseiki Isshou "Yuu to nari, mata asa to natta" no
   Imi.) 3 May 2005 <http://theology.exblog.jp/d2005-05-03>.

と書かなければなりません。E-mailだと、

   Theologia. "Answers to Your Questions." E-mail to the author. 13 May
   2005.

という風に書きます。インタビューだと、

   Theologia. Personal interview. 13 May 2005.

となります。「まあ、なんて細かいこと!」と、のん気なことを言っている場合ではありません。このようなフォーマットが公式に認められているということは、少なくとも英語圏において、ウェブサイト、E-mail、個人的なインタビューは、すべて誰かの著作活動のために引用される可能性が十分にあるということです。もちろん個人的なE-mail・インタビューは本人の同意が必要でしょうが、不特定多数の方に配信されるメーリングリストなどはウェブサイトと同様、公の掲示物として取り扱われることでしょう。「そんなつもりで書いた文章ではなかった」というような論理はまったく通用しない世界です。

 説教・講演会など、口頭の世界では、引用する場合もされる場合もそれほど学問として厳しくありませんが(もちろん著作権は発生しますので、法による拘束はあります)、文章にしてしまうと、その文章は学問的に比較的自由に引用されてしまいます(もちろん法による拘束の範囲内です)。このようなキビシ~イ世界を一度知ってしまうと、うかつな文章など決して書けません。説教等がウェブサイトに掲示されてあるのを拝見するとき、「本当に勇気ある決断をされた方だ」と私は感じます。誰に書くメールであっても、どんどん短くなってしまいます。

 このような世界が優れた世界なのか、不便な世界なのか、私には分かりません。ですが、日本という国にも日本のキリスト教界にもそのような世界がすでに訪れつつあり、主流になるのは確実だと思います。そのとき日本のキリスト教界はどうなってしまうのでしょう。最低限でも伝道チラシを印刷できる執筆力と勇気があれば・・・。これは、1サムエル16:7ではなくマルコ7:20-23から黙想すべき課題です。神の言葉に仕える者であるからこそ、言葉を大切に文章にする者でありたいです。著作権に厳しい世界において、最も普及力を発揮するグループは、言葉による啓示を最終権威とするグループではないかと思います。

 (またまたスキンを変えてみました。気になる点が多々ありますので、じょじょに整えていこうと思います。)
# by theologia | 2005-05-13 01:53 | 雑記
雑記「OXテスト」
 誰しも異文化[における]ギャップに驚く経験がおありだと思います。私が米国で経験した小さな経験をご紹介します。

 母国語が英語でない者にとって、英語の記述式テストを受けることは本当に苦痛です。講解説教学のテストにおいて「以下の聖句から説教を作成せよ」というテストを経験したときには、本当に泣きそうになりました。2時間弱でアメリカ人の友人達が去っていくのを見送りながら、韓国からの留学生と肩を並べて4時間以上書き続けました。鉛筆を握る手の震えがとまらない状況になりました。

 一方、OX式のテストは本当に助かります。英語を読む困難は変わりませんが、書かなくてよいのですから。ですが、この「マルバツ」という表記の仕方にすでに文化がひそんでいるとは想像もしませんでした。宣教学のテストでOX式のテストがあり、意気揚々と終えて提出しました。数日後の授業中、教授がさきのテストを生徒一人一人に返してくださったのですが、私の番になったとき、教授はおもむろに赤ペンを取り上げ、今まさに評価を書き込む様子を見せながら、私に向かってこのように質問されたのです、「君、このオーとエックスはどういう意味かね?」と!

 はじめ私は教授の質問の意味が分かりませんでした。そしてじょじょに教授がマル(O)をオー(O)、バッツ(X)をエックス(X)と理解されていることに気が付き、説明したところ、その場で採点されはじめました。私はビックリして「アメリカではこのような場合、どのような記号を記すのですか?」と質問したところ、「正解の場合はT(Truthの略)もしくはC(Correctの略)、誤りの場合はF(Faultの略)もしくはW(Wrongの略)を使う」とのこと!幸いにもこのテストは満点だったのですが、記号の説明を誤ればゼロ点になってしまうところでした。

 日本では、正解の箇所に先生がしばしば「ハナマル」とか「二重丸(◎)」を書いてくださり、「正解したんだ!」と生徒は喜ぶわけですが、たしかに私が経験した米国のテストにはそのような先生側からの記述も全くありません。正解にO、不正解にXをすることは当たり前だと思っていましたが、これも習慣・文化なんですね。一体どこからいつから始まった習慣・文化なんでしょうか。不思議です。
# by theologia | 2005-04-16 20:07 | 雑記
本紹介「Elements of Style for Preaching」
 忙しすぎて、まとまった文章を書くことができないときには、本の紹介にかぎります!PstrNS氏のエントリ「説教の栄養と味付け」を読んで、思い出した良書を紹介いたします。William H. Kooienga著「Elements of Style for Preaching」は、説教の「味」の部分(style)について記された読みやすい本です。さすがに身振り手振りの方法までは書いてありませんが、スタイルについて分かりやすく記されています。

 クーエンガは説教のスタイルの要素を5つ取り上げます。(1)Clarity(明瞭さ)、(2)Interest(関心)、(3)Evocation(喚起)、(4)Energy(勢い)、(5)Emotion(感情)。これら5つの要素の強弱のバランスによって説教の話し振りを(A)Teaching Style(教育的な話し振り)、(B)Persuasive Style(説得的な話し振り)、(C)Moving Style(扇動的な話し振り)、の3つに分類します。5つの要素と3つのスタイルは以下のようにあらわすことができます(星の数が要素の強さに比例)。

 (A)教育的なスタイル
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   明瞭さ   関心   喚起   勢い   感情 

 (B)説得的なスタイル
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   明瞭さ   関心   喚起   勢い   感情 

 (C)扇動的なスタイル
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   明瞭さ   関心   喚起   勢い   感情 

 クーエンガの考え方の興味深い点は、これらの3つの説教スタイルをどれも妥当なスタイルと認識し、「それぞれの聖書箇所自体が説教者に要求しているスタイルを、聖書箇所にしたがって説教者は使い分けるべき」であるとする点です。説教の内容のみならず、そのスタイルまで聖書そのものから導きだそうとする点に、私は感心します。

 説教のスタイルは説教アウトラインの作り方とも密接な関係があり、この点に関する英語文献の良書もありますが、説教を聞く側がこの手の本にあまりにも詳しくなりすぎると、語る側への要求がどんどん厳しくなって・・・神さまが説教者の個人的学びと説教奉仕をさらに祝福してくださることを祈り、説教者のご奉仕に感謝して教会に集うことが、やはり一会衆の霊的成長に最も重要なのでしょう。今度の日曜日の説教者のために祈らねば・・・。

Title:   Elements of Style for Preaching
Author: William H. Kooienga
Publish: Harpercollins: 1990
ISBN:   0310310113
# by theologia | 2005-04-07 12:37 | 本紹介
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